人間関係で疲れるのはどうして?

仕事でもプライベートでもいろんな人と接する機会があると思います。

原則、自分と気が合わない、一緒にいると疲れるという人とは一緒にいない方が良いと私は考えています。というより、そういう人からは自然と離れるように人間はできています。逆も然りですね。人に好かれたいと思うならば、一緒にいて疲れないような人になる必要がある。

 

ただ、人に好かれようと自分をかえて、人と接してもいつか疲れてボロが出ますから、どっちみち自分が自然体でラクに過ごせる人と一緒にいる方が幸せに繋がります。

 

離れられない時もある

問題なのは、仕事やご近所付き合いなど、嫌だと思っても離れられない場合です。

結論から言うと、嫌だなあと思う人の行動、言動、思考は変えられません。

自分からしてみればストレスでないその人のやることも、その人にとってみれば唯一の正義であり、長年の考えの蓄積の上に成り立っているものだからです。変えようと試みれば、それはその人の生き方の否定であり、今までの人生の否定であるとまで受け取られる可能性もあります。恐ろしいですが。

 

では、じっと耐えるしかないのか。

一つシンプルで簡単な方法としては、自分の感じ方を変えることがあります。嫌なことばかりに目を向けず、良いところを見つける。変えられるのは自分の行動、思考のみであると考えると過度な期待もせずにストレスが多少は軽減されると思います。

それでも耐えられない場合は、転職なり、引っ越しなり、あなたの生きる場所を探すことができることになるでしょう。それは逃げではありません。能動的に幸せになる選択肢を選んだ結果です。

 

そもそもどうしてこんな人間関係で疲れるのか、

私はいつも凹凸で考えています。人の行動や考え方には目には見えないでこぼこがそれぞれにあります。厄介なのは目には見えないこと。そして、誰もが自分のでこぼこが正解だと思っていることです。

誰かの“でっぱり”が心に刺さる時、人は普通へっこみ、そのでっぱりに合わせようとします。ですが、あまりにそれがとんがり過ぎていたり、度重なったりした時に耐えられなくなってしまうのです。

相田みつをさんの詩を思い出した方、そんな感じです。

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相田みつをさんの詩

 

自然体で生きることも大切です。

ですが、自分のでっぱりで誰かをへこませ過ぎていないか、たまに確認してみる日もあってもいいかもしれません。